秩父事件『草の乱』
2012年1月23日 : 投稿
秩父事件研究顕彰協議会
事務局長 篠田健一
秩父事件『草の乱』
井上伝蔵の生涯
死期を悟った男が、病床で34年前の秘められた過去を告白した。その告白内容は家族を驚愕させた。今の自分の名は仮の名で、本当の名は「秩父事件」の首謀者のひとり井上伝蔵であると明かしたからである。この場面から映画が始まる。
「秩父事件」というのは明治17年(1884年)11月はじめ埼玉県秩父地方で起きた農民蜂起をいう。当時の秩父は養蚕を生業とする農民がほとんどだった。折りからのデフレ政策で繭や生糸の価格が暴落し、このため借金がかさみ身代かぎりになる農民が続出した。困窮した農民は「困民党」を組織し、世直しを要求してついに武力蜂起したのである。1万人を動員したこの騒動は時の明治政府を震撼させた。困民軍は郡役所や警察・高利貸しを襲撃。これに対して政府は軍隊を出動させ、武力で困民軍を鎮圧。反乱は10日ほどで終息した。
事件後、多数の農民が逮捕された。しかも裁判の後、幾人かの指導者に極刑判決が下された。(8人、3人逃亡1名逮捕)その他多くは後に恩赦で減刑となる。
井上伝蔵も極刑判決を受けたひとりだった。が、彼は事件後逃亡し、その足跡は知れなかった。その後、彼はどう生き延びたのか?
二年ほど近隣の知人の土蔵に潜んだあと、彼は単身北海道に渡った。定住したのは石狩町だった。町は鰊(にしん)の豊漁でにぎわっていた。
そこで「伊藤房次郎」と名を変える。石狩では代書屋を営み、再婚し子供をもうけた。
石狩町での20余年に及ぶ生活のあと、伝蔵一家は札幌へ、そして野付牛(現北見市)に移住。
それから7年後の大正7年(1918年)春、持病の腎臓病が悪化。これだけは言い残しておきたいと思ったのか、伝蔵は札幌の病院で自らの過去を家族に告白した。さらに自宅に帰されたあと、病床に身横たえる伝蔵は家族6人と共に記念写真に収まった。
そして、6月23日、家族が見守るなか、65歳の波乱の生涯を終えるのである。
伝蔵の遺骸は当時の野付牛の寺で仮葬され、その遺骨は伝蔵の故郷、秩父市下吉田にある井上家の墓地に埋葬された。こうして伝蔵の思いはかなえられたのである。
逃亡したのは伝蔵を入れて3名であった。1名は四国の愛媛県で早く死亡。他の1名は2年後、明治19年11月に甲府で逮捕された。
映画公開以降、秩父事件に詳しい私によく「困民党は勝てると思って立ち上がったのですか?」と質問されます。副総理の加藤織平という人がおりましたが、彼はこう言っています。「自分たちは場合によっては軍隊に潰されるかも知れない。しかし、今の政治を変えて欲しいと思ってくれる人が必ずいる。たとえ自分達は犠牲になっても、次の時代にその人達が必ず変えてくれる。そういう人がいることを信じて闘おう」と。
尚、死刑判決は翌年2月、5月に刑は執行された。
第2770地区 埼玉 戸田西RC会員
広報委員長 熊木照男


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